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2007年 05月 27日
連日連夜、韓国映画を見ている。
メロドラマから社会派まで、片っ端から見続けているが、いまだに「ガツン」という鉱脈に当たらない。唯一まずまずだな、と思ったのはポン・ジュノ監督の「殺人の追憶」。翌日、レンタルビデオ屋の棚に「韓国映画の最高傑作」と書かれているのを見て、なんだか力が抜けた。 韓国映画に対するこの違和感はなんだろう。展開の緩さ、抜きがたい血族重視、結末へのこだわりのなさ。理由としては、どれも表層的だ……。と、カンヌ国際映画祭グランプリの「オールド・ボーイ」を見ていて、あ、と気づいた。 この人たちは、諦めないんだ。「どうにもならないことを、どうにかする気の」人たちなんだ。「シルミド」だろうが、「私の頭の中の消しゴム」だろうが、「シュリ」だろうが。押して押して押しまくることが、美学のように。 でも。諦めるって、よくないことだろうか。どうにもならないことは、確かにある。どうにもならないことの前で、人を出し抜いて、なんとか生きのびる。力の限りあがいて、やはりどうにもならずに座り込む。自分では動かせない「何か」の前で、知恵と体力を振り絞り生き抜く人々を描かせたら、香港映画はピカイチだ。 私は、静かな諦めの瞬間が好きなのだ。泣き疲れて、力も尽きて、深呼吸をして、周りを見回す瞬間が。そこには静かな希望がある。「ブエノスアイレス」で、帰らぬトニーを待ちながら、部屋を掃除するレスリーのように。
by yeungji
| 2007-05-27 21:09
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